いい人との出会い、そんなネットワークがどんどん繋がれば、もっと生きやすい社会にできるはず。 そんなご縁づくりを目指して、生き方も笑顔もキラリと輝く人「きらりの人」を紹介していきます。

Profile
映画監督 信友直子さん
1961年広島県呉市に生まれる。1984年東京大学文学部英文科卒業後、森永製菓に入社するも、2年後テレビ番組制作会社へ転職。以来、ドキュメンタリー制作の道を走り続ける。2010年からフリーのディレクターとなり、北朝鮮拉致問題や若年性認知症などをテーマに100本以上のドキュメンタリー番組を手掛ける。
2013年頃から、父・良則さんが、認知症の母・文子さんを介護する様子を記録。2018年、自身が監督・撮影・語りをつとめた「ぼけますから、よろしくお願いします。」を公開。25万人を動員し、文化庁映画賞・文化記録映画大賞などを受賞。2022年には続編「ぼけますから、よろしくお願いします。~おかえりお母さん~」を公開した。現在は、良則さんの介護のかたわら、認知症介護などをテーマとした講演会で全国を飛び回っている。良則さんの日常をFacebookで発信中。
著書に、「ぼけますから、よろしくお願いします。」「認知症介護のリアル」「あの世でも仲良う暮らそうや 104歳になる父がくれた人生のヒント」などがある。
映画監督 信友直子 オフィシャルウェブサイト
https://naokonobutomo.com/
映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」の Facebook
https://www.facebook.com/bokemasu
好奇心がスクスク育った子ども時代。
今回、ケアネーネが密着したのは、映画監督の信友直子さんです。
信友さんのお父さんが、認知症のお母さんを介護する様子を記録したドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします」。老老介護のありのままの姿を映し出す中で、互いの変わらぬ愛情がじわっとあふれる作品をいかに撮ったのか。信友さんご自身が、どう介護に向き合ってきたのか。まずは、映像の世界へ飛び込んだ、その半生からうかがいました。
1961年、広島県呉市に生まれた信友さん。小さいころから好奇心旺盛で、時に周りの大人たちを困らせていたそうです。
「疑問があると、誰にでも“なんで?”って聞いちゃう子だったんですよ。大人は、“また、なんで病が始まった”と面倒くさがっていたんですけど、母はそんな私をおもしろがって、ちゃんと説明してくれました」。信友さんが2、3歳の頃、すごく疑問に思っていたのが、“私はどうして私なの?”という、なんとも答えようのない難しい問い。それに対してお母さんは、子どもにもわかるような平易な言葉で説明するにはどうすればいいか、哲学書を片手に真剣に考えていたといいます。「子どもだからってバカにせず、同じ目線で、ひとりの人格として見てくれていたんです」。
子どもの個性を大切にする両親のもと、のびのびと育った信友さん。「あんたは自分のやりたいことをやりなさい」といわれ続け、広島大学付属高校から東京大学をめざすことに。「私の年だと、呉の田舎から東京に出る女性はすごく少なかったんです。いくら成績が良くても、女の子は親元にいるものだって、東京の大学は受けさせてもらえない。だけど、うちの父も母も、可能性は伸ばすべきだという考えでした」。若い頃は語学に興味を持ち、帝大をめざしていたお父さん。しかし、太平洋戦争に突入し陸軍に入隊。やりたいことがやれなかった無念さを、子どもには感じさせたくなかったのだろうと信友さんは考えています。
「周りも東大へ行く人が多くて、なんとなく私も行くものだと思っていました。あと、ちょっと恥ずかしいんですけど…あの頃ゴダイゴに夢中になっていて、ゴダイゴがいる東京に行きたい!という気持ちもあったんです」。

「グリコ・森永事件」が、
未来を変えるきっかけに。
東大文学部へ入学し、4年生の時、当時ブームになっていたコピーライターをめざし就活。が、男女雇用機会均等法のない時代、広告代理店に入りたくても男性にしか求人はありませんでした。「それまで、何でも男子と同じようにやってきたのに。女子であるだけで、スタートラインにすら立たせてもらえなかったんです」。それでもあきらめず探し続け、森永製菓の広告部の求人を見つけ無事入社。コピーライターとしてのスタートを切りました。
半年間コピーライター養成講座を受け、やっとコピーライターデビューができると思っていた9月、大事件が起こります。
「森永事件で、広告なんて出す余裕がなくなったんです!」
1984年、世間を震撼させたグリコ・森永事件。江崎グリコ社長の誘拐や、青酸入りのお菓子を店頭に並べ脅迫するなど、森永製菓も多大なる被害を受けました。森永製菓では、店頭で商品を売ることができず、社員が駅や路上で直接手売りしていたそうです。その様子を多くのマスコミが取材に押しかけ、一時はマスコミ恐怖症だったと語る信友さん。「大きなカメラを担いだおじさんたちが詰めかけ、“お気持ちは?”とか聞かれて、すごく恐怖を感じました」。そうした中、ある女性記者からの取材がひとつの転機に。「“ご両親も心配されているでしょ”と、寄り添うように話を聞いてくださったんです。私、親にも無理して平気な顔して、友だちにも就職失敗したなんて思われたくないから強がってた。でも、その記者さんの前で自分でもびっくりするくらい泣いて、それでスッキリしたんです。なんだか救われた思いがして。こういうことを仕事にするのもいいなと思いました」。
翌年の3月に、やっと事件は終息。信友さんも無事コピーライターデビューを果たすのですが、自分が思い描いていたようなクリエイティブな現場ではなかったそう。広告の撮影現場に行っても、クライアントはお客さま扱いで、何か意見をいうのもはばかられる。でも、ただ座っているだけでいいのだろうかと、ストレスはたまる一方だったとか。「現場で作っている人たちが、すごく楽しそうだったんですよ。私はあっち側へ行きたいのにって思っていました」。


一度はまれば抜け出せない!
ドキュメンタリー制作の世界。
結局、24歳で森永製菓を退職。高校・大学時代に脚本家に憧れていたこともあり、ドラマ制作会社のテレパックに入社した信友さん。ドラマのアシスタントプロデューサーを務め2年が経った頃、ついにドキュメンタリーとの出会いが訪れます。
「日テレのゴールデン枠で、“追跡”というミニドキュメンタリー番組があったんです。その企画を募集していて、出してみたらたまたま通ったんですよ」。信友さんの企画を担当するはずだったプロデューサーが病気で参加できなくなり、26歳にしてプロデューサーに大抜擢。少数精鋭でつくるドキュメンタリー番組は、大所帯で制作するドラマの現場にはない魅力がありました。「プロデューサー、ディレクター、カメラマン、音声という4、5人のチームなので、自分の意見も通りやすいんです。それが、ダイレクトに番組に反映されるからうれしくて、おもしろくて!もう、“追跡”に専念しようと思いました」。
ドキュメンタリーの世界にのめり込み、だんだんチャレンジングなことがやってみたくなったという信友さん。1960年代の大学闘争とは何だったのかに興味を持ち、なんと、過激派中核派に取材を申しこんだことも!「好奇心が勝っちゃうというか、怖いもの見たさというか…。でも、編集して作品を仕上げるディレクターが、怖いから行きたくないっていいだして。結局、私がディレクターをすることになったんです。現場で直接相手と話をしながら、その人も気づいていない深層心理にまでたどり着く。その作業がすごくおもしろくてはまっちゃいました」。
ついには、ドキュメンタリーの制作会社へ転職。ディレクターとして、フジテレビの週末の報道番組の企画に携わるようになります。「忙しすぎて、1か月に3、4日しか家に帰れなかったんですよ。それでも楽しくて、楽しかったから自分の体の異変に気づけなかったんです」。
45歳の時、乳がんになった信友さん。娘の手術に付き添うために、お母さんが上京。その様子でさえ、ドキュメントとしてフィルムに収め、「おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記」という作品を発表しているのには驚きました。


「ザ・ノンフィクション おっぱいと東京タワー~私の乳がん日記」ではニューヨークフェスティバル銀賞・ギャラクシー賞奨励賞を受賞
母の想いを受け止め、
カメラを回し続けることに。
がむしゃらに働き続けたこれまでの生き方を見つめ直し、自分のペースで仕事をしようとフリーランスのディレクターとして活動を始めた信友さん。そして2012年頃、お母さんの異変に気づきます。
「電話をしても私の話が呑み込めず、おかしいなって思い始めました。でも、母の方が先に気づいていたと思うんですよ。あれほど入れあげていた書道を、突然やめるといいだして。父も私も、キツネにつままれたような気分でした」。
お母さんは、全国的な書道展で入選するほどの腕前で、書の大家である井茂圭洞氏に師事するために、神戸まで通っていたそうです。「同じ教室の方から聞いたんですけど、いつもは30分前に来て準備する真面目な信友さんが、その日はギリギリの時間に真っ青な顔して、ハアハアいいながら入ってきたって。たぶん、道に迷ったんでしょうね。それで怖くなって、やめようと思ったんじゃないかなぁ」。


それまで、帰省しては自前のビデオカメラで両親を撮影し、家族で楽しんでいたそう。でも、お母さんの様子が変わってから、信友さんは撮影をやめてしまいました。すると…
「ふたりで台所に立っていた時、本当にさりげなくなんですけど、母が、“最近、家でカメラ回さんようになったけど、お母さんがおかしゅうなったけん、撮らんようになったん?”と聞いてきたんです。母はおかしくなった自分の姿を撮られたらどうしようと思っているんじゃないかって、撮るのを遠慮していたんですけど…。でも、せっかくの家族の楽しみを自分が奪っているかもしれないと、母は気にしていたみたい。あの時、母からそういわれなければ、また撮ろうとは思いませんでした」。
2014年にアルツハイマー型認知症と診断されたお母さん。信友さんは、呉の実家に戻って介護するしかないと考えていました。
「帰ってくるけん、一緒に介護しようって父に話したら、“あんたはせっかく何十年も東京で仕事して、人脈もつくったのに、その歳で仕事断ったら、もう次はないぞ”っていわれて。それまでも、両親は独り身でフリーランスの娘が、この先どうやって食べていくのか、かなり心配していたと思うんです」。
「わしがおっ母の面倒を見る」と、95歳にしてそれまで一切やってこなかった家事を引き受けることになったお父さん。信友さんは、その様子を帰省するたびにカメラに収めていきました。


娘として、ディレクターとして、
母の苦悩と向き合う。
「私、なんでこうなったんかね?どうしたんかね?」
カメラ越しに問いかけるお母さんを、涙をこらえ撮り続ける信友さん。
「物理的にできないことは代わりにやってあげられるし、忘れていることは教えてあげればいい。でも、こうやって悩んでいるのって、どうしてあげることもできないから、すごくつらかったですね」。
「あれを撮った時、母はこんなにもつらい思いを抱えていたのかって初めてわかりました。それまでは、認知症って本人はそんなにつらくないと思っていたんです。周りは振り回されるけどお気楽だよね、なんて感じていたこともあって。」
私みたいに誤解している人もいるだろうから、
これはみんなに見てもらうべき映像だと思いました」。
その頃、信友さんが両親の老老介護の様子を撮っていると知ったフジテレビから、番組にしてみないかと声がかかります。お父さんに、映像を世に出していいか相談すると、“あんたの仕事なら、いくらでも応援する”と。そこから、二人の日常を撮り始めた信友さん。ひとりで買い物に行き、妻のために慣れない手つきでリンゴをむく父の姿。布団の中から出られず、“死にたい”と泣き叫ぶ母の姿。娘として寄り添いながらも、ディレクターの眼差しで記録していきました。
そして、2016年に「娘が撮った母の認知症」が情報番組『Mr.サンデー』内で放送され大きな話題に。視聴者からも多くのメールが届いたそうです。翌年には続編も放送され、映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」につながったのでした。



介護サービスにつながり、
明るさを取り戻す。
その一方で、帰省するたびにお母さんの表情が能面のようになっていくのが、とても心配だったという信友さん。
「母は、耳の遠い父に話しかけても答えてもらえないものだから“お父さんは私がバカになったけん、話し相手にならんのじゃろう”と、勝手に怒ったり、落ち込んだり。ずっとひとりで黙っているような状態で、刺激もないから認知症も進んでしまうし。“どうして私はこうなったんじゃろう”と、うつのようになっていたんです」。
それでも、誰かの手を借りることをかたくなに拒否していたお父さん。「母が機能しなくなって、わしは本当におっ母に世話になっとったと身に染みた。恩返しをせんといけんと、義務感みたいになっちゃったんですね」。そこで、信友さんは地域包括支援センターに相談。一緒に父を口説いてほしいと頼み、やっと介護サービスにつながることができました。
週に1回、デイサービスに通い始めたお母さん。元々、友だちも多く社交的、出掛けるのも大好き。デイサービスで体操やゲームをしたり、仲間とおしゃべりすることで、明るさを取り戻していったそうです。「結局2年間父だけで介護したわけですが、もうちょっと早く地域包括支援センターにつながっていればよかった。」
そうすれば、母が孤独にさいなまれる2年間はなかったのかなって。
それだけは後悔しています。
そして、映画の公開を1か月後に控えた2018年9月、お母さんが脳梗塞で倒れ救急搬送。お父さんは毎日片道1時間かけて病院に通い、お母さんを励まし続けました。リハビリも順調に進んでいたその年の暮れ、脳梗塞が再発し寝たきりの状態に。2020年、お母さんは愛する家族に見守られながら静かに旅立ちました。
「父は、母が認知症になって、世話をするのが生きがいみたいになっていたから、ガックリきたらどうしようってすごく心配だったんですけど…」。
その頃、映画がヒットし、呉ではロングラン上映されていたそう。お父さんは呉の街でちょっとした有名人になっていました。「歩いている人から、“お父さん!”って結構声を掛けられるんですよ。それが生きる張り合いになったのか、落ち込むこともなく元気。“お父さんカッコいい!”とみんなから褒められ、どんどん明るくかわいくなっていきましたね」。
心強いバディ、ももちゃん登場!
現在、お父さんは105歳に。ひとりではできないことも増えていき、信友さんは1年の多くを呉でお父さんと過ごしています。ただ、遠方で講演活動があると、どうしても家をあけざるを得ないのだそう。
そんな時、お父さんを看てくれる心強い味方が、信友さんの幼なじみ、“ももちゃん”こと百野友美さんです。
百野さんとは、ご近所にある銭湯仲間。お母さんが認知症を発症し、信友さんが頻繁に帰省するようになり、銭湯で会っておしゃべりする機会が増えたそうです。「その頃、ももちゃんもお母さんを介護中だったので、大変よねぇってグチを言いあったり。別にね、何の解決にもならないけど、互いに話すだけでスッキリしましたね」。

百野さんがお父さんのお世話に加わったのも、ごく自然な流れだったとか。お父さんがいつも利用していたスーパーが改装中で買い物に行けないと知り、百野さんが買い出しを引き受けてくれたのだそうです。「買ったものを届けに行くと、お父さんがコーヒーを淹れてくれて、おしゃべりして。それが楽しいんですよ。そのうち、ご飯も一緒に食べるようになってね。最初は、食器を下げようとしたら“わしがやるんじゃけん、せんでええ”ってお客さまですよ。でも、だんだん任せてくれるようになって、買い物行く時もお財布預けてくださる。信頼を得たことがうれしいんです。あと、必ず“ありがとねー”っていってくれて、お父さん、本当に素敵なんです」。
お父さんの話を聞くのが何より楽しみだという百野さん。若い頃に乗馬をしていたことや、よく観た映画のこと、そして信友さんの話も。「ひとりの人間として彼女を尊敬しているって。素敵な親子だなぁと思いました。お父さんとは、介護という感じではなく友だち同士。実は、彼女にも話していないエピソードがあって。ここに夫婦箸があったんですよ。お父さんに“この夫婦箸、まだ使ってないんですね”っていったら、“そうなんよ。じゃあ、結婚しようかぁ”ってプロポーズされたんです!それも、お父さんの一流のユーモアですね」。この話には信友さんもびっくり!
「ももちゃんのことは幼稚園の頃から知ってるし、いろいろ頼みやすかったんだと思います。私も、彼女が介護経験者だから頼りにしているんですよ。私よりオムツ交換もうまいしね」。おふたりで、“これどうやるん?”“こうしたらええんじゃない?”といいながらオムツ交換したり、ひとりだと気が滅入ることも、ふたりなら失敗しても笑い合えるのだそう。本当に素敵なバディです。
来られる時に来るといいつつも、毎日朝と晩にはお父さんの様子を見に来る百野さん。以前、ご自身も友人に介護を助けてもらった経験があるそうです。「仕事をしていると、どうしても家に帰れない空白の1時間とかあるんですよ。それを友人が埋めてくれて、本当に助かったんです。」
だから、私も困っている友だちの役に立ちたいと思って。
恩送りですね。
百野さんが受けた恩を、信友さんへ。ありがとうの気持ちをバトンのようにつないでいく。支え合う心の大切さ、素晴らしさを、しみじみ感じました。
「ももちゃんに困ったことがあったら、絶対、何をおいても駆けつけます。今、彼女に困っていることがないとしたら、私もほかの誰かの手助けがしたい。恩送りができたらと思っています」。


介護に必要なのは、
頼れる人を増やすこと。
お父さんの生活を信友さんとともに支えるのは、百野さんだけではありません。
ケアマネージャー、訪問看護師、口腔ケアの先生を含むチーム、「お父さん見守り隊」。グループLINEでつながり、写真やメッセージでお父さんの状態を共有しています。信友さんは、自分が不在の時も、誰かが様子を報告してくれるので安心だといいます。百野さんも、医療ケアの専門家とつながれたことが心強いのだそう。「お父さんが熱出したりして心配な時、LINEに書いたら“心配ないですよ”とか、“今から行きますね”って夜中でも来てくださるんです。安心感が違いますね」。
最近、お父さんの友人の娘さんがメンバーに加わり、お父さん見守り隊は総勢13人に。その上、信友さんは週1回配達に来るヤクルトさんともLINE友だちになり、お父さんの様子を報告してもらっていたそうです。
また、ご近所とつながることも大事だと百野さん。お父さんの入浴を介助していた時、どうしても浴槽から出られず、近くの自動車店に駆け込み助けを求めたそうです。「親の介護をする同級生とも、互いに助け合おうって話しているんですよ。」
やっぱり、これが困っとるんよって、ちゃんと周りに伝えることが大切。
甘えるっていうか、頼るっていうか…
「日本人って、何をしてもいいけど人に迷惑だけはかけるなっていわれて育つじゃないですか。だから、迷惑かけないようにって、思い過ぎているんですよね」と信友さん。日頃から地域とつながり、頼り、頼られる関係を築いておくことも大切なのだとあらためて感じました。
介護生活に欠かせない、
運命のケアマネとの出会い。
お母さんが介護サービスの利用を始めた2016年から信友家を支え続けるのが、ケアマネージャーの小山麻美さん。小山さんは、居宅介護支援事業所めぐみ園の管理者で、准看護士の資格もお持ちです。信友さんが呉市の地域包括支援センターへ相談に行った時、“信友さんの家には、絶対小山さんが合う!”と紹介され出会った運命の人!もはや家族のような間柄です。

「小山さんじゃなかったら、たぶん、介護サービスは使わんでええわってことになっていたかもしれない。彼女は会社の儲けより、利用者さんのことを第一に考えてくれるんですよ」。お母さんが亡くなった後、お父さんが介護サービスを利用していないにもかかわらず、何かと気にかけて訪問してくれたそうです。「父は、“わしは歳とっとっても自分でできるんじゃ”と思ってるから、その気持ちをすごく大事にしてくれて。“そうよね、お父さん何でもできるよね”といいながらも、ちょっとコーヒー飲みに来たわって見に来てくれたり。それって、何のお金にもならないのにね」。小山さんは、お父さんのプライドを保つためにも、サービスを使わないで済むのなら、使わなくていいと考えていたといいます。
「父が母をひとりで介護していた時、心配で電話しても“大丈夫”っていうんですよ。心配かけたくないのはわかるけど、やっぱり不安だから小山さんに“ちょっと見てきて”ってお願いしていました」。出会った時からLINEでつながり、何かあると報告をしてくれていた小山さん。めぐみ園では24時間の緊急時訪問介護加算があり、夜中でも連絡できるのが心強いと信友さん。お母さんが脳梗塞で倒れた時も、東京からすぐに駆け付けることができない信友さんに代わり、お父さんを支えてくれました。「電話で父がうろたえていて、小山さんに連絡したらすぐに来てくれて、病院にも付き添ってくれたんです。」
父も、すごく助かった、
地獄に仏じゃったとよくいっています 。


これからは、
介護事業所だけに頼らない介護も必要。
「気になるし、ほっとけんですよね」と、利用者だけではなく、その家族に対しても気を配り、ケアマネの守備範囲を狭めることなく動く。それだけに、小山さんの優しさに甘えてしまう利用者は少なくありません。ただ、自分と同じような対応の仕方を、事業所の他のメンバーには求めていないと小山さんはいいます。
「下の人にそこまではさせられないし。小さな子どもがいるスタッフなんかは、私に連絡をくれたら代わりに行くようにしています」。家庭の事情で夜間の対応ができないのは仕方ないこと。でも、管理者である自分が動くことで、そうした対応の仕方を押し付けてはいないかと、小山さんは悩むことがあるそうです。
そして、私たちの想像以上に、今、介護の現場はさまざまな課題を抱えているのです。
「なり手がないから人手不足。ヘルパーさんや看護師さんが少ない事業所は、毎日の支援が難しくなります」。介護士不足はもちろん、ケアマネ不足も深刻化しています。「あと、困難事例がすごく多くなっているんです」と小山さん。家族と本人の意見が食い違っていたり、子どもが介護にかかわらない、経済的な問題など、支援するのが困難なケースが増えているそうです。一件一件に時間がかかり、難しいだけに経験も必要。小山さんが困難事例の対応にあたることも少なくありません。
ひとりで抱え込むのでもなく、介護事業所だけに頼るのでもない。信友さんのような介護のカタチは理想的なのだと思いました。
みんなに愛される、みんなのお父さん。
頼もしいチームに見守られ、日々を過ごすお父さん。105歳の誕生日には、お祝いに映画の上映会を開催してもらい、舞台あいさつまで務めたそうです。お父さんのファンは全国にいて、Facebookにあげた動画に、1万以上のいいね!がつくことも。旅先で会った初対面の人が、“おじいちゃんを思い出した”と泣き出したこともあったそう!百野さんも、小山さんも、お父さんのお世話したくなるのは、その人柄と素敵な笑顔に尽きると話します。
しかし、105歳という年齢のこともあり、身体機能が低下し脱水症状を起こして入院。一時は危篤状態にまで陥り、信友さんは喪服まで用意したそうですが、見事に復活しました!
「食べるようになってから元気になったんよね。退院後はベッドの上での生活となりましたが、どんどん元気を取り戻し食欲も旺盛なのだそうです。
あれが食べたい、これが食べたいって、食いしん坊なのがよかった。
食べ力が、生き力だから。

“あんたはあんたの仕事をせい”といっていたお父さんも、最近ではひとりになることが心細くなってきているようです。信友さんが銭湯に行ってくるというと、“その間にわしは死んどるかもしれん”といわれたそう。「体力が落ちて、かなり心境に変化があって。仕事があるから、私がずっと家にいるわけにはいかない。でも、父のためを思えば、このまま家で看た方がいいと思っています。小山さんやももちゃんがかわるがわる来てくれて、みんなにチヤホヤされて。父は幸せですよ」。
信友さんも、老後は呉で過ごしたいと考えているそうです。
父がいなくなったら、私は天涯孤独なんですよ。
いずれは、人の世話にならないといけないんだと思っています。
「ももちゃんとも支え合って、小山さんには私のケアマネさんになってもらいたいんです」。
家族のような存在が近くにいるって、本当に心強いこと。お父さん、娘さんをはじめ見守る皆さんのためにも、これからもお元気でいてくださいね。